悠々の時
エミル・クロニクル・オンラインのプレイ日記です。リアルの事書いたりMHFの事もたまに書きます。
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´ω`)ノ こんぬづわ
今日は曹魏のメンバーのお話でも・・・


まず自分から・・・

【夏候淵妙才】

曹操が県の長官の件で罪を受けた時その身代わりとなった事がある。

黄巾の乱の時に曹操が兵を挙げると、兵を率いて随行し、やがて陳留・潁川の太守に任命された。

その後、曹操軍の主力の一人として曹操に従って転戦し、その勇将ぶりで、都度、戦功を立てた。ある時は先鋒として速さをもって敵に当たり、ある時は後方を固めて軍を支援した。


張魯の降伏後、劉備は漢中を奪取し、そこを拠点にさらに北上して曹操を滅ぼすという戦略の下、漢中攻撃を開始した。

夏侯淵は指揮下の張郃や徐晃をたくみに繰り出し劉備軍と一進一退の攻防を数年に渡り続けた。

が、しかし。夏侯淵は黄忠の軍を迂回することに成功し背後から黄忠を攻撃したが、この攻撃は失敗し夏侯淵は戦死した(定軍山の戦い)。

夏侯淵はしばしば戦勝を収めているものの、曹操は「指揮官には勇気ばかりではなく、時には臆病さも必要で、行動するときは常に知略を用いよ」と戒めていた。

さいぶんきー【蔡文姫】

後漢時代末期の大学者で「蔡邕」(さいよう)という人がいました。古典、天文、数学そして音律を修め、学問だけでなく鼓や琴に通じていた知識人です。

「蔡文姫」(さいぶんき)はその娘として生まれました。

文姫はあざなで、名を琰(えん)といいます。 その名のとおり才媛であるという、なにやらオヤジギャグのようなことをいわれていますが・・・

幼いころから文学・楽曲に素養がありました。

匈奴の王子「劉豹」(りゅうひょう)が彼女を気に入り、側室にしました。
劉豹はそのとき13才…。 こうして蔡文姫は12年間、匈奴での生活をおくります。

ちなみに劉豹の子(孫?)、劉玄海は三国時代を経て西晋~五胡十六国時代のさきがけとして、平陽を拠点とする「漢」を建てました。その養子が「劉曜」なのです。

中原でゆるぎない勢力となった曹操は、昔の知己・蔡ようの娘のことを思い出し、多量の贈り物で蔡文姫の帰還をかけあいました。

左賢王・劉豹はそれを承諾し、蔡文姫は曹操の手によって復興をみた洛陽に帰ってこれたのです。


運命に無理して逆らわず、ありのままを受け入れじっと耐えた才女の一生涯・・・

【曹仁】


武勇に優れ、若いころは弓術・馬術・狩猟を好んだ。190年、董卓討伐の際、密かに若者千人を集め、徐州一帯で暴れまわった。

その後、曹操の配下に入り、別部司馬・行鋒校尉となった。

曹仁は若い頃は乱暴者であったため、父に疎まれて家督を弟の曹純に譲られるなど不運が続いた。

だが、曹操に従って武将として過去の行為を戒めて、成長した後は厳格に法を遵守し、常に法と照らし合わせて信賞必罰を行なうなど、諸将の見本になったとされている。

【荀】

荀は若い頃に何顒から「王佐の才を持つ」と称揚された。

王佐の才とは王を佐(たす)けるの意味で、例えば管仲のように主君に仕えてその人を偉大たらしめる才能のことである。

ちなみに何顒は若き日の曹操の才能を見抜き、後に荀攸と共に董卓暗殺計画を練った。

荀が4歳の頃、権勢を振るっていた宦官唐衡の娘との婚姻が決まった。

清流派の名士であった荀氏の子息が、宦官の一族と繋がったことで批判を受けたようであるが、当時4歳の荀が婚儀を取り決めるわけがなく、唐衡の荀家への圧力によるものであろう

同時代の人物の評価としては、司馬懿の「書物に書かれていることや、遠方の出来事を見たり聞いたりはしているが、百数十年間に亘って、荀殿に及ぶ賢才は存在しない」

曹操が天子に上表する際に文句した「荀の袁紹を亡ぼす時など数多くの謀は、とても私の及ぶところではありません。先に下賜され記録されました爵位は、荀のずば抜けた功績に相応しくありません。どうか彼の領邑を古人並にして下さいますように」などがある。その名は同時代においては、極めて高かったことが見て取れる。

コレくらいかな・・・
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